昭和49年12月16日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
少しばかりの土地でも、それを生かしてまたは耕してお野菜を作るなり、花を作るなり。荒らしておくと言う事が一番問題なり。最近は工面で荒らすと言う様な人達もありますぐらいです。何か国家から補助が出るかなんかでしょう。だから秋作だけは作るけれども、麦作は作らない半年あかしてある。いわば荒れ放題にまかせてある。それでそれはその人の手が届かないからと言う事じゃなくて、工面でそうしておる。
私は工面で人間の浅はかな心でね、事を処していくと言う事は本当に浅はかな事ですけれども。矢張り神様のお嫌いになる事だと思いますね。それを生かして使う耕して、そこから花を植えまたは穀物を植え野菜を植えと。それで神様はお嫌いなさるという反対ですから、神様からそういう人が愛されると言う事になるのじゃないでしょうか。自分の都合で自分の工面で荒らす。それでは神ながらなおかげになりません。
昨日は報徳祭の前夜祭、引き続いて、富久信会の発会がございましたので、私もちょっと入らせて頂いたのでございますけれども。神様を使う商売人ではなくて、神様に使われる商売人でなからなければならない。所が中々そこが実をいうたら難しい。神様を利用する神様を使う。成程神様は利用もされて下さるし、また使われても下さるのですけれども。それでは本当の繁盛にならない。神様に使われる神様に利用される。
それを私は最近ここで言われる、自力と他力と言うならば他力は無尽蔵であり、限りない働きが受けられる。人力には限りがある。神様を使うというのは、お願いした事だけを聞いて下さっても、それだけの事である。神様に使われる。神様に利用されると言う様な行き方。そこには他力のおかげを、限りない無尽蔵というか、無限の神様の働きに預かることが出来ると言う様な意味の話しをした事でした。
これならば神様がです、私共を十分に利用して下さると言う事は、十分にお使い回しを下さると言う事であります。抜け目なく神様がお使い回しを下さると言う事であります。それは、どう言う事かと言うとそんなら、神様から休む暇もないようにと言う事ではなくて、その向こうには、氏子の用は神が足してやると仰せられるような、神様の働きが受けられる世界があるのです。
甘木の安武先生のお話に、あちらの奥様がある時に、御夢を頂かれたと。ある野原を歩いておられるとお年寄りの、白髪をはやしたお爺さんが、一生懸命に荒地を耕しておられる。その横を通りかけられると奥様が呼び止められる、そのお爺さんが。そして家に帰ったら、安武に言うておけと仰った。金光大神がそれの言葉は忘れましたけれども、先回りをして。安武が今度布教に出る荒地の場に、いうなら安武先生はこの甘木の土地と言う事を全然知られなかった。
もちろん金光様を知る人も、本当に無いというてもよい位の所に、荒地であり新布教でありそういう新布教をなさる、その甘木の土地をです喜びの種さえ蒔けば、何ぼでも花も咲けば実が実るように、金光大神が先回りをして耕してやっておると。帰ったら安武に言うとけと仰った。私は荒地荒れ屋敷を神様がお嫌いなさる。人間の考えで荒地荒れ屋敷を開墾したり、肥料を施したりと言う様な事やらはいうならば大した事はない。
自分の気がついた自分の周辺の、または自分が少しばかり買い求めた、屋敷なら屋敷を買って家を建てたり、または田んぼを買って開墾したりするだけの事である。所が私共がです一度自力から他力の信心。自分を中心にした信心から、神様を中心とした信心。そういう信心に、私共がならせて頂く時にです。いうならば氏子が神の用を足しておる、一生懸命神様を中心に。氏子の用は神が足してやるとい仰る。
神様が足して下さるというほどしの、神様の働きというものは、甘木の安武先生の奥様が頂かれたお夢のようにです。いわば甘木の里に布教に出られた。出られて間もなく沢山な人が助かるようになった。何年経っても人が助からんで、道が開けないでおる人達も沢山ある中に、甘木の安武先生だけは、どうしてあぁいうおかげが受けられるだろうかと、不信に思うくらいである。
そのことをあるお弟子が、桂先生にお伺いをしたら。「安武は、舞台裏の働きが長かった」と仰った。と言う事はです神の用を、さっさと足しておられたと言う事であった。お芝居でいうならば、その舞台裏の仕事を、しっかりしておられたという事。だから舞台に出る前に、花道にかかった途端に、大向こうからいうならば「千両」という声が掛った様なもんじゃ。
そういうおかげを頂くことこそ、私は愈々神様の願いに応える、本当の荒れておったところの荒地荒れ屋敷を、神様にお喜び頂ける、神様に愛される開墾が出来、地肥やしをさせて頂くと言う事になるのじゃないかと思います。いかに神様が荒地荒れ屋敷を嫌いなさるから、ただ自分の周辺自分の所だけを、一生懸命開墾するというても、神様は喜んで下さるでしょう。一生懸命働くことは。
そこにはそれだけの実りもある事ですから。けれどもそれは小さい。神様が限りない神様の願いである所の、世の中の難儀な氏子を取り次ぎ助けられるというか、荒地荒れ屋敷を開墾を目指させて頂いておる者がです、神の世を中心にしての御用をさせて頂いておるうちにです。その間に神様が布教に出られる先である、甘木の土地を切り開き、または開墾しておって下さったんだ。そこには限りない荒地、荒れ屋敷が開墾されて行く事になったのです。同じ荒地荒れ屋敷を粗末にしないと言うてもです。
私共がするのではなくて、神様にさせて頂くという他力の働きを、自分の身の上に受けていくという行き方をです。昨日富久信会 の方達に聞いて頂いたんですけれども。中々理屈では分かっても、実際問題として中々出来ない事。○○商店という、その○○商店は、どこまでも○○商店であって、神様のお店であると言う様な心の底から、それを思えれるおかげを頂くために。本気で私共が信心をさせて貰うて、本当に私の店だけは、神様のおかげなしには立ち行かんのだと。
私の店だけは、神様のおかげで、今日こうあっておるんだという思い込みが出来るくらいなおかげを、先ずは頂かなければいけないねと言って話したことです。けれども私共の信心の理想というものは、自分の周辺の小さい荒地荒れ屋敷をです。耕して幾らかでも得をしようと言う様な事ではなくて、神様が願いとされる、荒地荒れ屋敷を、開墾させて頂けるために、まず神様に開墾して貰わなきゃならん。ためには私共がまず、神の用を足しての信心。神様を中心に申しあげる信心。
そういう信心から神様がまた氏子中心の働きを下さる。そこに他力の信心いうならば、限りないおかげの頂けれる世界というものが開けてくるのです。そういうおかげを受けることが、私は荒地荒れ屋敷を、愈々神様にお嫌いなさる反対の、神様に愛される信心。愛される私共の働きというものを、そこに神様に使われておる自分の自覚が出来た時に、神様が、荒地荒れ屋敷を整理整頓耕しをして下さる。そういうおかげの受けられるような信心を目指し頂きだいもんですね。
どうぞ。